普通の境遇に生まれたかった
皆さんは「普通の境遇に生まれたかった」と思ったことはありますか?
私はあります。
悪い意味で究極のカードを引いてしまったようなものなので、
どれだけ普通の境遇の人を羨ましく思ったかわかりません。
「フェアじゃない」と、
どれだけ思ったかわかりません。
「なんでこんな苦労をしなければいけないんだ」と、
どれだけ思ったかわかりません。
「普通の境遇で人生をやり直したい」と、
どれだけ思ったかわかりません。
もしも普通の境遇に生まれていたら
では「もしも普通の境遇に生まれたいたら」どうなっていたのでしょうか?
これを少し考えてみます。
幸せな人生だった?
そうだと思う・・・。
だけど、ちょっとマイホーム主義的な幸せというか、
苦しい境遇の人の気持ちに関心を持つこともなかったのかもしれない。
最強になっていた?
いや、そうはなっていないと思う・・・。
なぜなら、頑張る必要もなくなるから。
私のことだから、追い詰められていなければ、
きっとのんびりしてしまったと思う。
「頑張ることも、考えることも、気づくこともなかった」
そう考えると、苦労や不条理が、
プラスに作用した面もあるのかもしれません。
プラスとマイナスは表裏一体
人間、何かを失う時、必ず何かを得ています。
逆に、何かを得る時、必ず何かを失います。
プラスとマイナスは表裏一体の関係にあります。
わかりやすいのが年齢です。
人間、年を取ると若さは失われていきますが、
その分、経験が蓄積されていきます。
じゃあ、例えば凄く成功したスポーツ選手がいたとしましょう。
しかしその裏では、
長年、厳しいトレーニングを積むという代償を払っています。
怪我をしたり、体を痛めることもあるでしょう。
どこかの会社が、不正をして儲けたとします。
「いくら儲かった!」
これはプラス面かもしれない。
だけど一方で、会社として実力を伸ばすチャンスが失われてしまったり、
発覚して逮捕されるリスクも背負ってしまった。
これがマイナス面です。
このように、
プラスとマイナスの間で、
エネルギーを転換しているような感じがあります。
まるで、エネルギー保存の法則みたいですね。
ひきこもり期間は無駄じゃない
そうであるならば、ひきこもり期間は無駄じゃないはずです。
「そんなことないよ。ゲームをしていただけだよ」
でも、そのゲームの経験が、
ある日、意外な形で役に立つかもしれません。
エネルギーが転換されているとしたら、
プラスだけということも、マイナスだけということもあり得ません。
それは潜在的にかもしれないし、
自分では気づいていないかもしれないけど、
ひきこもり期間で、何かを獲得しているはずなんです。
まとめ
何かを得れば、何かを失う。
何かを失えば、何かを得る。
ただエネルギーが転換されるだけ。
だとしたら、人間には、部分的に切り取ればあるけど、
総合的には、上下や優劣はないのだと思います。
エネルギーの総量は変わらないのだから。
どんな人にも、その人固有の経験があり、
その人ならではの、何かを持っています。
ただ一つだけあるとすれば、
どの方向にエネルギーを転換していくか?
人として正しい方向にエネルギーを転換していけるか?
それだけが問われているのかもしれません。
ひきこもり期間で失ったものが、
大きければ大きいほど、
得たものもまた、大きいはずです。
苦しければ苦しいほど、
そこで得たものも大きかったはずです。
その経験が、思わぬ形で役に立つ時が、
きっと来ると思います。
ひきこもり期間は、無駄じゃない。
あとは、それを、どう活かしていくかだと思います。